昭和44年01月04日 朝の御理解



 御理解 第77節
 「人の悪いことを、よう言う者がある。そこにもしおったら、なるたけ逃げよ。陰で人を助けよ。」

 人間と云う者は妙な者で、人の悪口と云うのは聞きたい悪口やら云いよると耳側立てて聞きたい。そういうものが私共の中にはある。そこを克服して、その場を逃げよと仰る。  その上かげで人を助けよ。いよいよ難しい事だと思います。売名的なものになったり、してあげますと云うて助ける事はよくあるけれども、かげで誰も知ってはいない、かげで助ける。そして、かげで助けられる。
 そう言う様な心はどう言う様な心であろうか、そう言う様な働きは、どこから起こってくるのであろうか。昨日私は、親教会のお節に呼ばれました。御親戚の方達ばかりで、信者は私と池部先生だけでした。ある話から、ある方の悪口になったんです。悪口を云われておる人の事を、私はようく知っておるのです。なる程、世間ではその人の事を悪く云ったんですけれども、実際は大変いい人だったんです。
 あの人はもう、お母さんを大変粗末にしたという訳なんです。 それが今度の奥さんがいいもんですから、前の奥さんの悪口になっておる訳なんです。聞かして頂いとって、私が今のお話をしたのです。けれども世間ではあげん云うとったけれども、ほんによか人じゃったですもんね、と云う話になった。結局悪口じゃったのが、そげな人じゃったと云う事になったのですけれども。
 是なんかはある意味合いで、人の悪口をその場で逃げはしておらんけれども、助けたと云う感じですねえ。そこの雰囲気までが有難く成って来るのですよね。 是は妹の事ですが、善導寺に勤めておる時にある局員の方が「本当に池尻さんばっかりは馬鹿のような人」と云う訳なんです。「とにかく池尻さんの周囲には誰あれも悪人はおらんとじゃけん」とその方が云われるのですよ。
 色々人の悪口が出だすと「あらあげんよか人ばどうしてそげん云わっしゃるのじゃろう。」本当にその人をよい人と思い込んどる風ですもん。そしてそこに、妹が陰で助けられておるおかげが潜んでおる様です。そんならそのおかげの潜んでいるという元の元の心と云うのは、どういう心だろうかと私は思うのです「なるたけ逃げよ。かげで人を助けよ。」と云う、かげで人を助ける心とか、悪口どん云う段じゃあない。
 皆がよい人に見えると云う事は、どういう様な事であろうか。御神誡の一番最後に「信心する人の真の信心なきこと」とあります。そんなら真とはどういう事か、と私は思いました。この77節の中の本当に人の悪口を云わんで済む、いや云う者があったらそこを逃げよ。いや逃げんでも、そこの場をかえって有難いものにしていけれるだけのもの、又は、そこに陰で人を助ける働きと云うものが、その様な中に生まれてくる。
 悪口云いよった人があの人はいい人だと証明が出来ると云うか、それをその人の為に弁明してやると云うのじゃないですけれども。そういう心、そこの雰囲気までが明るくなる。雰囲気までか和んでくる。あの人の前には悪人はいないと云う様なおかげを頂くと云う事は、どういう様な事か。私共は信心させて頂いとるけれども、真の信心が出来ていない所にそういう事になる。
 そんなら真の信心とはどういう事か。信心は皆がしておるけれども真がついていない。そんならどういう信心させて頂いたら真の信心になるだろうか。『真とは、神心じゃ』と仰る。なる程神心になれば人の悪口なんか無くなってしまうだろうと思う。皆をあの人はよか人あの人もよか人と云う事になる。人はあぁ云うけれどもあの人にはあぁいういい所がある、というところしか見えんだろう神心であったら、これが真だと云う事なんです。そんなら神心とはどういう事か。 
  私共がこのご理解の中にある、「人の悪いことを、よう言う者がある。そこにもしおったら、なるたけ逃げよ。」ここに私共、凡夫に対する所の適切な御導きが感じられますですね。今云う神心とは、持ち合わせがない、むしろそれよりか悪口でも云いよるなら、何の、どうしての、と云うてから、聞き耳立てたいごたる気持ちがお互い心の中にはある。そこに凡夫を感ずる。
  だから、その凡夫に対するところの御導きがです、なるたけ逃げよと教えておられる。そこに信心させて頂きよる者の自覚にホッと気付かして頂いて、こげん時こそ逃げないけんのだなあ、と逃げていかにゃいかん。そして、それをもっともっと深めていくとです、心から明るく心からにこやかなものを心にかけていると、人の悪口をいうような暗いものは無くなります。
  有難い信心話をしておる時に、人の悪口なんかとてもとてもおかしくて、出来るもんじゃないです。私共が例えばこういう御教えに取り組ませて頂くと云うと、そこに結局神心と云った様な真と云うものが、出てくるけれども、その真を追求してみるとです、結局信心する人の真の信心がないと云う事は、真の信心がないから人の悪口を云わんならん、又、人の悪口の中に入っていかにゃならん。
 真の信心させて貰っておると、そんな事にはならない。そんなら真とは何かと云う事になる。真とは神心じゃと。なる程これなら陰で人を助けられるであろう。そこに又自らも陰で人から助けられておる。皆の喜びの中に感謝の中に自分がある。そんなら神心とはどういう事になるだろう。私は神の心と云うのは、神そのままが自然だと思う。してみると自然の心それがそのまま神の心である。
 自然の心はどういう心かと云うと、私は愛の心だと思う。自然の働きと云うものは、だから、そのままが神の働きだと云える。神の働きとは、どういうものかと云うと、神の働きの中には、いわゆる愛のみ、いわゆる神愛である。そこで私共は、自分の心の中にある愛の心と云うものがです、そのまま神心であるとするならば、結局神愛の追求であると云う事。そこで、その愛の心を分からせて頂く為に、私共がです。
 有り難しの追求をしていくのです。あらゆる事の中から有難いと云うものを感じさせて貰えれる信心。信心とは、一言にして言うなら有り難くなる稽古だと云う事。その有り難い有り難いと云う心の中から生まれてくる親切心。親が子を思う様な心、例えば子供の着物が汚れておる。学校に行く前、母親がちゃんとそれを縫うてやっておる。それはもう当り前の事である。
 あんたの着物を縫ってやった、洗うってやったと云う恩きせがましいものは、さらさらない。それが親の心である。いわゆるかげで人を助ける心である。そういう心が、あかの他人の誰彼の上にも使えると云う事である。そういう心が使える心はどういう心かと云うと、信心によって生まれてくる有難いと云う心である。そこで私共は、いよいよ有難うならして貰える稽古をさして貰わにゃいかん。
 芸術家が美の追求をしていく様に、私共は有難しの追求をしていく。有難しの追求をしていきよるとです、いよいよ有難しの向こうには地位もいらない、名誉もいらないと云う事になってくるのです。唯、有難しの追求のみ、いわゆる有難しと云う神心が心に頂けてくる信心。そこには人の悪口もなからなければです、それを聞こうとする心すらがない。よし聞いた所で、それを浄化していく働きがそこから生まれてくる。
 ですから私共は、まずかげで人を助けよとおっしゃる。そういう働きを邪魔するものをまず知らなきゃいけません。それは何と云うても私は慢心だと思うのです。昨日、青年会の方達が本部参拝から、四、五時間位延着してこちらへ着いた。そして青年会長がお届けしますのに、「先生、この度は大変申し訳ない事を致しました。それは控え所で畳を一枚焼いてる訳です。
 それで青年会長として、それを境にタバコをやめさせて頂きますと云うお届けをさせて頂いたんですけれども、その事を、それ位で済んでよかったなあと私が云いよったら、『天狗の茶づけ』と頂くのですよ。」青年会の方達が五十人も九州当たりから参ってくる、全国でも青年会の方達がこれだけバスの一台も貸切って御本部参拝すると云う所は、そうないと思うのです。そこには、矢張り鼻高々なものがある訳です。
 云わば茶づけでさらさらで、そういう事がままになっておる合楽では。けれどもそれは、どこまでも『天狗の茶づけ』であると云う事。ここを誡められたと云う事になるのです。ままになっておるのだけれども、ここに天狗を気付かせて頂いてです、こういう事が出来ると云う事は、どういう事なのか、その元はどこにあるのか。ここを例えば青年会の方達は、大いに自戒していかねばならないと云う事を感じました。
 そういう心がです、今日の77節のかげで人を助けるじゃなくて、反対の働きになるのです。人に是を積ませる働きになるのです。昨日、古川家からお茶が参りました。その事のお礼を申し上げておりましたら、『名字帯刀』と頂くのです。が、ゆめ慢心しちゃならないと云う事。天狗になってはならないと云う事。さらさら茶づけでままになっておるからと云うて、ええ気になっちゃならないと云う事。
 そういう事を戒めていくと云う事。そういうものを取り除いていくと云う事がかげで人を助ける原動力になる事だと思うのですよ。一つ御理解77節の件からです人をかげで助けるという事はどう言う様な心になればと、それは神心じゃと神様は教えておられます。信心する人の真の信心なき事を、真の信心がないから影で悪口いわんならん、悪口言いよるなら聞き耳立てたい心があると云う事は真の信心がないからなのだ。
 そんなら真とは何か、真とは結局、神心だ、神心とは言わば自然の心だと、神の心、自然の心を心とする心だ、そういう心を私共が追求していく、それには私共が有り難くなるという信心とは、有り難くならして頂くということを分からしてもらって、様々な問題を通して、そこから有り難い心を、いよいよ創っていく、そこにいよいよ愛の心、神の心、神心強うなっていく。
  陰で人を助ける働きがもう自然の中に出来ていく、そう言わにゃならんからではなくて、自然の中に神の陰で人を助ける働きが出来て来る所に、そこに又陰で自分が助けられる様々な働きが生れて来る、そう言う意味の事がです、本当の意味合いでおあいよかけよではなかろうかと思うです。あの人からああして貰うたけん、こうしてやる、もう形に現れるものではなくて。今度佐田さんが元旦に御神米を受けられる時に。
 お書き下げを頂かれたのが、「いぶし銀のように」という事であった、それこそ形ではない、もう心、いぶし銀の様にピカピカ光らない、それでも何とはなしに落ち着いた美しさが、いぶし銀の中にある様に、いぶし銀の様な信心。私それを頂いてから書き下げさして頂いたら、もういたく感動しておられるんですね、どういう事じゃろかと思うた所が、明くる日参ってみえてけら、皆さんここでお届けがあるんですよ。
 先日昨日除夜祭のおかげを頂いて帰らして頂いた途端にです、テレビに映し出されたのが、あの紅白歌合戦だったそうです。水前寺清子が司会で越路吹雪という人を丁度紹介しておる所だった。この越路吹雪という人は、大変芸が落ち着いた芸で、いうならいぶし銀の様な感じの人です、というてその紹介があっていた。そん時佐田恭造さんがそれをみてから、もうそのいぶし銀と云う事が、心にじぃんと来た。
 それでその奥さんやらお母さんやらに。もうこりゃ来年の信心は是ばい、と言うてその話しておった。私達の信心はあの今水前寺清子が言っている「いぶし銀」の様な信心をと思い夕べ言った事が、朝ここで「いぶし銀の様に」と頂いたものだから、そりゃびっくりするだけじゃない感動する筈ですよね、そういう今日私が皆さんに申しましたのは、かげで人を助ける働きというのは、いぶし銀の様な信心から生まれてくると思うですよね。
   どうぞ。